昭和48年01月26日 朝の御理解



 御神誡 一、「信心する人の真の信心なきこと。」

 信心をする人は、沢山有りますけれども真の信心を、願い求めて信心する人が非常に少ない。是は何々教だから真の信心ではない、金光教だから真の信心と言う事はないと思う。金光教の信心はしておっても、真の信心でない人も沢山有る訳である。ですから折角させて頂くのですから、真の信心が分かりたい、真の信心を頂きたいという願いを、矢張り持つ事だと思う。お互い真の信心という方へ向きが出来ておるだろうか。
 長い間合楽で稽古して参りました。成り行きを大事にする。又は全ての事柄を御事柄として、神様が私に求められる、それとして合掌して受けるという様な生き方。是に徹するならば、是が真の信心だと思うです。だから真のおかげが絶対について来る、表れて来るのです。それはどう言う事かと言うと、天地との交流と言うか、天地との調和というものが、是ほど見事に出来る事はないからです。
 例えば昨日のご理解で言うと、恨むとか憎むとかと言った様な、心のある間は本当のおかげが受けられないという意味の事を頂きましたがね。例えば憎まなければおられない、恨まなければおられない様な事であってもです。そんなら今まで私共が致しました信心によりますとです。恨まねば憎まねばおられない人のおかげで、こういう信心が出来ましたと言うのですから、もう恨む憎むじゃなくて、お礼になってますもの。この位素晴らしい調和はないです。
 事柄の全てが御の字をつけて頂くという頂き方は、これは天地との所謂大調和ですから、天地との交流おかげの交流が始まる。だから真の信心とは是だという風にです、もう言い切ってしまえば、もうそれだけの事なんですけれどもね。その上最近では天地の心が、分かれば分かる程神様の願い、神様の思いが分かれば分かる程、神様の願いに応え奉らなければおられないと言う、やむにやまれん信心が育って来る。
 そこに五つの願いと言った様な事になって来るのですから、愈々真の信心を一筋に進んで行っておると言う事になるのです。それに徹して行くと言う事はね。信心をする人の真の信心なき事と。昨日一昨日上瀧さんの所の謝恩祭ですから、私共夕方から参りました。そのすぐ後に電話が掛かってきた。光昭が事務所におり、上野先生がご結界奉仕をしておった。それこそけたたましい願いだったらしいですけれども。私は南何々という者でございますと。今、家内がお産をしよります。
 ところが肩から出てきよる赤ちゃんが。だからお医者さんは、母子共が難しかと言われます。だから「どうぞ神様にお願いをして下さい、子供は仕方ないが母親の命だけでも助けて下さい」とそれだけだったそうです。誰何処の人ち言う事が分からん。ただ南という事が解っただけだった。さぁすぐお取次ぎ頂いて、上野先生がお取次ぎさせて頂いたら、ここのお初穂箱にそれこそ、本当にビックリする様なおいさみが付いた。
 これは一生懸命にお願いせにゃと言うて、お取次ぎさせて貰ってお願いさせて頂いて、それから暫く致しまして、又電話が掛かってきた。「さっきの南でございますが、おかげで母子とも、無事安産のおかげを頂きました、お礼を申し上げて下さい」という事だったそうです。どこの方ですかとも聞く暇も無い位の事。けれども私はそれを聞いて、本当に有難いと思いましたですね。私は金光様の信心というか、私共が対象としとる所の神様は、そういう方なんです。
 だから信心は無くても、おかげはやってあると言うおかげと、もう一つです縋がれば、おかげを下さると言う事。電話でですよそれも。ひょっとして昨日あたりは、お礼に出て来なさるかも知れんね、と言いよりましたけれども。勿論見える風でもなかった。見えるとか見えないとかお供えをしたとか、ここへ来たとかという事じゃないようですね。合楽の金光様とこう縋がった時にです。もう神様が助ける準備をなさっておられる。私はそのおいさみを頂いたという事で、確信を持っていうならお願いが出来たじゃろうと思うです、上野先生が。
 そして合間のうおかげで、母子供が助かりましたと言う。もう私はそれで良いと思うですね。もう本当に合楽教会という教会を、ここにこうして店を出しとるというかね。そういうお客さんだけで良いと思うですね私は。信者さんをお客さんと言うならね。人が助かるという事なんですから。もう人が助かる事さえ出来れば良いと、教祖が仰っておられるんですから。けれどもそんなら、私共頂く方の側から申しますとですね。所謂おかげを頂くと言う事から、所謂信心を頂くと言う事になり。同じ信心を頂くなら真の信心を頂きたい、と言う事にならなければならんのです。
 そこで真が追及され、所謂真心が要求されるのです。ですから真、真心と言うものをね追及して行くという事。それは神様の願いであり、要求という訳ではないけれども、神様はそれを求め給う。でなかったら所謂、真の助かりにならないからです。ただ母子共助かりました、おかげでこれが成就しましたと言う事だけでは、人間の助かりには繋がらないのです、本当の助かりと言う事に。だから私は真の信心とは本当の助かりと言う事だと思うです。人間が本当に助かると言う事。
 昨日私はある本を読ませて頂いておりましたら、こういう事がその本に書いてあった。「人のまさに死せんとす、その言うや善し」と、人のまさに死せんとする、その言うや善し、人間が愈々もう難しかという時に、言う言葉と言うものはね、もう本当に善い事を言うというのです。そこに書いてありました人は、若い時から非常に放蕩もう1年ばっかり、放蕩が止んでおるかというと、又放蕩が始まる。家に帰って来とって子供を作っちゃ又出ていく。そして又何年かして又帰ってくる。
 もう子供も家内も親もその為に大変な、いわば、不孝であり、子不幸であり家内不幸の人だったらしい。その人が病を得て帰りに帰って来て、1年ばっかり家で養生して貰うて、結局亡くなった訳です。亡くなった時に遺言した事が、どう言う事かと言うとですね、「家族中仲良うしていってくれ」と言うのが、最後の言葉だったんです。自分は全然そういう事は、やっていってない一生。けれどもね本当に心の底にはね、親子も睦まじゅう親に心配かけちゃならん。家内も仲ようしていかにゃならん。
 子供は愈々親の愛を以って育てにゃならんと言う事を知ってるんです。それが出来ない所に私は巡りと言うものを感じますけれどもね。けれども愈々死ぬる時に、その人が言うた事はです、「どうぞ皆んな仲良うしていってくれ」と言うのが最後であり、それを言うて、息を引き取ったと言う事です。それで人のまさに死せんとする、そのげんうや善しという事になる。だから是はその人だけの事じゃない。お互い皆んながそうじゃないだろうかと思う人間と言うものは。
 それでいて恨みつらみがあったり、我情我欲を言い張ったりとても、死ぬる時にです。しっかり儲け出ぇちくれなんてんち言うて死ぬ者はおらんと思うですたい。常日頃はお前がごと無駄使いをしてから、ちった金を貯める事に、本気にならんかとか言う様な事を言うかも知れませんよね子供に。けれども死ぬる時にですしっかり、がま出ぇちから、いっちょうんと儲け出せと言うて死んでいく者な私はおらんと思う。
 もう本当な事をいうです。だから私は本当な事と言うのはです、人間がぎりぎりの時に言う事が善い事であり、本当な事を言うがです。その本当の事が信心によって現わされていくという事が、本当の信心と言う事になるじゃないですか。真の信心という事になるじゃないですか。皆さん我情我欲どん言う段じゃありませんばい。本気で私共信心に縁を頂いて、しかも合楽でこうやって縁を頂いて、今月あたりに頂いておる。
 日々のご理解は毎日毎日が、これが合楽のぎりぎりの信心だという様な風にして、また実際感じるんです私は。ですから今月はどうでんこうでん、いっちょ月末に皆さんに、私は答案用紙を出そうと思うとる。今月頂いたご理解の中から、一つ試験問題を出して、それに一つ答えを書いて貰おうと言うて、昨日話したらどなたでしたっけな、桜井先生。久留米の笠さんの車に乗せて頂きましたら、桜井先生私は昨日、親先生がご結界から試験問題を出しよんなさるところのお夢を頂いたち。
 私が思いと言うものはそれは出来なくてもいいけれども、答えはここに出しておくのだから。だから是だけはこの答えは本当のものだから覚えておきなさいよと。是に添うて信心を進めて行くのですよと、言う事を分かって頂きたいと思う事。切なく今月私が皆さんに説いておる事は。ですからね例えば昨日のご理解といい一昨日のご理解といいです。もう本当にここを頂いたら、ここが分かったらしかも見易うその気持ちになったら、その姿勢を取ったらそれがやって行けると言う、進めて行けれると言う信心です。
 只我情我欲があって、おかげの方ばっかりに向きをしとるから、難しい事であって、信心とは、わが心が神に向かうのを信心と言うのじゃ、という事が分かったら、もうそうしなければおられないほどしの、しかも、要点をついてのご理解でしたからね。神様が教えて下さる事ですから本当な事だと言うて、私は昨日お話した。だからこの三つの事を、皆さんが実行しなさるなら、絶対おかげに直結する。だからそれとは反対の事になると、いわゆるおかげに直結しないと言う。
 日々のおかげは頂いておる様であっても、本当のおかげにならないと是では。折角信心させて頂くのですから。例えば電話でお願いをして、それでも矢張り心が神に向こうておるのですから、やっぱ信心は信心です。おかげを頂くご利益だけしか願わんというのでも、やっぱ信心は信心ですけれども。それは真の信心ではないと言う事。ですから私共がここに、信心する人の真の信心なき事と言うのは、天地の親神様の一つの嘆きだと思うです。折角信心するなら真の信心をしてくれないか。
 あの世にも持って行け、この世にも残しておけるほどしの信心をしてくれないか。いうならば天地との交流が、スムーズに行く事の為にはです。天地との調和を目指さなければならない。その調和という事は、私共の家庭生活の上においてでもしかりである、それが本当の事だ。例えばさっき例話を申しましたように、自分は一生を不調和な生活をさせて頂いて、親に不幸家内に心配、いうならば子供不幸して来た人が、愈々まさに死ぬる時に言うた事は、皆仲良うしてくれと言うのが遺言であったと言う様にです。
 是は人間の心の底の底にある所の願いである。そういうものを持っておりながら、途中の我情我欲に左右されておると言う様な事ではです。だから信心とはその本当な事を分からせて貰うて、本当な事を行じて行く事なんです。皆さんの家庭に、不調和な事はないだろうか。周囲とのいわば関係においても、不調和な事はないだろうか。有るとするなら、それは必ず、我情我欲が元なのです。自分の思いを通そう自分の汚い欲がです、その不調和の元になっておるです。
 だからそういう日々調和のとれた、いうならば拝み合いの生活を願わせて貰い、その事の為の信心であり、修行であると言う様な、おかげを頂かせて貰うて、愈々真の信心を目指さなければ、真のおかげにならない。合楽に参っとるから、真の信心という事じゃない。合楽で、こうしてお取次ぎさせて頂いておる御教えはです。これは私の考えでお話しとるとじゃない神様に頂いて。昨日も私はその事を繰り返した。
 私は神様にこう頂いて、こう聞いて頂いておる。これはもう本当な事なのだから、これを実行しなさいよ。その実行しなさいよと言う事はいっちょん難しい事じゃなか。お商売をさせて頂くならばです。例えば盗んだり殺したりすれば、それはお上が有ってお仕置きに合う。けれども商売人が、悪い品物を高う売ったくらいの事では、警察もどう言うことは出来ん。けれども神が見給うのですから。ですから信心させて頂くならばです、良い品物をどこよりも、幾らでも安う。
 この生き方から生まれる所の、商いの利でなからなければ、後に残らんて。所謂本当の事にならない。これは私が三十年前、自分が商売させて頂いておった時分のことを指摘してです。神様が教えて下さった、ああいう生き方ではもう商売の神様のごと言いよったばってん、商売は上手じゃったけれども、儲けもしよったけれども、なあにも残っちゃおるまいが。それはぼちぼちの様ではあるけれどもです。人よりかいうならおろ儲かりよるごとあるけれどもです。
 信心の道に乗りとっての商売させて頂いてからの事じゃなから、ほんなもんじゃないと、言った様な御理解じゃったですね昨日は。だから本気で我情我欲を取ったらです。その日から実行出来るです。例えば、これが呉服屋さんなら呉服屋さんであるなら、帰ってすぐ符丁ば付け替えられる。例えば死ぬる時です、家んとはちっと安かけんで、高う符丁ば付けれてんなんてん言うて死んで行く奴はおらんと思うです。本当な事を言うて行くと思うです。その本当な事を生きとる内にしとかなきゃならないて。
 それが本当の信心であり、真の信心だと言うのです。そん為には、我情我欲をとらなければならない。そこに、お客さんとのいうならば、交流と言うか、調和がとれるから、それがおかげになる。今日はとりわけ、私は信心する人の、真の信心なき事という事を、私は調和という事、天地との交流それは天地との調和、そこで合楽で申しております、ここに徹底していくという事。成り行きを大事にする。御事柄として受けて行くと言う。これは、真の信心の基本になるものだと。
 そういう基本になる信心を知っておりながらです。それを私は実行に移さないと、本当の行の上に表さなかったらです。真の信心でもなからなければ真のおかげにも繋がらない。信心すると言うのはただ電話でお願いしますと言うたっちゃ信心は信心。ただ毎日毎日、お参りしとるというだけではなくてです。所謂本当な事を願い、本当な事を目指させて頂いて、本当なおかげを頂かせて貰うと言う所に焦点を置いたら、信心がもっともっとです、輝かしい楽しい有難いものになって来ると思うのです。
   どうぞ。